昨日の投稿は↓でした

私が何回も書いていることですが、
親とか先生とかって
「人を育てる」ことが務めなので
「絶対に失敗できない」と
思い込みすぎているように感じます。

昨日の投稿にも書きましたが、
今、初任の先生は十分な研修を受けていません。
「初任者研修」というプログラムはありますが、
具体的な日常業務についてはマニュアルも、
引き継ぎも、基本的にはないんです。
前年踏襲。口伝え。

親も同じ。
十分な研修も、実習もなく、
産んだ瞬間から「親」です。
みんなやってることだから、
やってきたことだから、
自然に覚える、
見て覚える、って感じ。

それが悪いことばかりではないと思っています。
マニュアルになったとたん、
血が通わなくなることがよくあるから。
心が通わなくなることもよくあるから。

だから、自分で試行錯誤しながら、
手に入れていく。
それもよし、だとは思います。
知識も経験もあるベテラン先生より、
何もわからずがむしゃらに走る若い先生が、
子どもたちにたくさんの恵みを残してくれることがあるんですから。

体力と気合だけで突っ走ってきた、
若い日の私が、
子どもと共に学んだことはたくさんあるから。
あの熱を持って、無我夢中で子育てする日々は
もう私には来ないと思うと、
愛しさも感じます。

そして、その過程で「失敗しない」はありえないです。
だって、練習してないもの。
料理の本読んで、動画見て、
実際に調理して、100%うまく行くかって?
それは無理でしょう?
失敗しながら、「かげん」が分かってくるのでしょう?

子どもは生き物なんだから、
自分で生きていく力を持っています。
育っていく力もあります。
「私が育てた」と思うのは傲慢です。
「生きている力をそっと手助けした」ぐらいの感じが
私の中ではしっくりきます。

生まれてからずっとその子とつきあってきた
保護者の方がそう思うのはちょっとわかる。
それでもやっぱり
「育ちたい子をちょっと助けた」ぐらいかと……。

たまたま4月に担任になって、
一日のうち数時間いっしょに過ごしただけで
「私がその子を変えた」と思うのは傲慢だと考えます。
その子のバックグラウンドには、
十分ではないかもしれないけれど「生活」があります。

その子には、家庭も、家族もある。
なくても、それに代わる人がいる。
それらが十分でなくても、
それを補完してくれる人は、
先生以外にもいるはずなんです。

「自分が失敗したら取り返しがつかない」も
背負いこみすぎじゃないでしょうか?

もちろん、私自身にも「最低最悪の先生」との遭遇があり、
人生変わった! と今でも思います。

でも、その最悪の出会いは、
今の私の仕事、生活、すべてにつながっています。
その出会いをプラスに変えられる、
逆の出会いもちゃんと用意されていた、と
そう思えるようになったんです。

子育ても、教育も、
「もし自分が失敗したとしても、
きっと誰かがこの子を助けてくれる、
私の足りない部分は誰かが補ってくれる」という
信頼を持って臨むことも大事なんじゃないでしょうか?

そうじゃないと、
子育ても、教育も、
辛すぎるし、大変すぎます。
ゆるりと、肩の力を抜いて、
子どもたちと楽しく過ごしていくことが、
お互いの成長につながるのではないか、
そんなことを考えています。

かかし座のクラファンも引き続き行われています! 今日が最終日