友人がヘルプマークの交付を受けたという投稿をしていました。

大阪府のサイトからお借りしています

最近あちこちで取り上げられるようにもなり、
少しは知られるようになってきたかな?

友人は病気の後遺症で、
自分の目で見える範囲が狭まってしまい、
特に左うしろから近づくものや人には気づかない。
突然視野の中に人や物が飛び込んでくる感じなので、
街を歩いていてヒヤリとすることも多いと言います。

通勤に使っているバスが、
これまで比較的すいていて、
座席に座れないということはなかったのに、
コロナの感染が広がり
「満員電車に乗るよりマシ」とバス通勤に
切り替える人が出てきて、
今は座れないことも多いのだとか。
後遺症の一つに、体の安定が保ちにくい、
というのがある彼女は、
バスの車内では座らないと怖い。
でも、一見してとても健康そうに見えるので、
優先席には座りにくい……

それで、これまで迷っていたこのマークの取得を
決めたのだそうです。

前置きが長くなりましたが、
SNS上でのやり取りで、
「逆に言うと、こんなものが必要になったんだ世の中。
以前なら誰しもが声がけしてたんだろうに」
という彼女の書き込みが、重たいなぁと思った。

誰しもが声がけしてたかどうかはわからないけど、
そもそもこんなマークは必要とされなかった。
以前は後遺症などがある人が外に出なかったとか、
弱い人が声を上げるようになったという背景はあるだろうとは思う。
これまでガマンするしかなかった人の声が、
このマークにつながった、というのはいいことだとも思う。

でも、それにしても、今は「弱い人」といっしょにいる機会が
極端に少ないのかも?と思った。
いや、「弱い」ってことが許されない雰囲気というか。

障害というのではなくとも、
病気や、体質や、その時の状態も含めて、
どんな人にも「弱い時期」がある。

前回私が書いた思春期の揺れも、
ものすごく弱い時期だった。
20代の頃からわりと最近まで、
電車に乗るのもキツい日があった。

でも、それは人に言えなかったし、
そんなことを言うことが許されるとも思えなかった。

平均値があって、
そこに至らないのなら、
黙って我慢する、
必死で合わせる、
なんていう選択肢しかなかった。

そして今はもっとそうなんじゃないか、と
感じるようになった。
テレワークになって、通勤のしんどさから解放されたら、
あの電車通勤の日々に戻る自信がないくらい。
自分が結構頑張って「平均値」になろうとしてたんじゃないかと
気付いてしまった。

どんなにがんばっても平均値に至らない人は、
「守るべき人」として区切られて、
それを「マーク」で示して、わかりやすく主張しないと、
守ってもらえない。

例えば家族に「見えない障害」を持っている人がいれば、
想像できるかもしれないけど、
そうじゃなかったら、知ることもない。

とどさんは股関節を人工関節にしているので、
障害者手帳をもっているけれど、
実は、手帳の交付を受ける前、
痛みをこらえて通勤しているときのほうが
ずっとつらかった。
でも、スーツを着て電車に乗っていたら、
体格もいいし、席を譲ってもらえることはまずなかった。
それだけならいいけど、
人込みでは、あちらこちらからぶつかられて、
身体がふらつくことも多かった。
ホームの端を歩かざるを得ないときには
バランスを崩して落ちたら?と
見ていてすごく怖かった。
だから、無理やり杖を持って行ってもらってた。
杖があれば、相手に少しは伝わるから。

身障者用の駐車場も、
タクシ―サービスも、
優先席も、
その時の方がずっと必要だった
手帳を持っている今のほうがずっと元気。

これも矛盾があるなあと思う。

世の中には本当にいろんな人がいる。
ヘルプマークについても、
つけたい、つけたくない、できればつけたくない、
など、いろいろな立場、考え、感じ方がある。

学校に通っているときから、
そういう人の「弱さ」の多様性を
当たり前に、身近に感じておくって大事なんじゃないかな。
そうじゃないと想像力が育たない、働かない。

それと、もう一つ大事なのは、
「弱い人」が「助ける人」にもなれるってことも
わからないこと。
一方的に守られる―守る という関係じゃなく、
この関係は時に逆転もする。
助けていた人から、助けられることだって
当たり前にある。

みんながそういう経験をしていたら、
世の中の空気が少し変わるんじゃないかなぁと思う。

学校って、そういうことを
当たり前に経験できる場所だったらいいのになぁ。

これも大阪府のサイトから借りました

インスタもやってます