またまたコメントのやりとりからインスパイア。

「やりたいことだけやってるのはわがまま」と同じように
「不器用だと幸せになれない」「不器用では生きにくい」
という思い込みもないかなぁ?
それは、どこで、誰に植え付けられたものなのかなぁ?

周囲を見渡して、
器用な人が幸せで、
不器用な人が不幸、
とは限らない。

不器用でも、ていねいに、ゆっくりと、
自分のペースで幸せに暮している人もいれば、
器用であるがゆえに、
あちこち手を出して、結局自分を追い込んでるような人もいる。
後者は器用なんじゃなくて、結局不器用なのかもしれないのだけど…

「学校」ってことをずっと考えてて、
ああ、学校は社会でうまく働く人になるため
そういう人を育てるための場所なんじゃないか、
と感じることが多いです。

社会の歯車の一つとして、きちんと機能できる人を育てる場所が学校。

決めつけはどうかとも思うけど
考えれば考えるほど
「個人の幸せ」よりは「社会の一員としての責務」とか
「社会に貢献できる人」みたいなところを
目指しているような気がしてくる。

経済を回していくには、やはりそれだもんね。
「国家」ということを考えても
生産性とか、効率とか、そういうものを考えなくちゃならない。
民主主義とか、個人の尊厳とかいうけど、
それよりも優先されてきたことがある。
そして、それが苦しかった人もいる。

うまく(器用にということではなく)そこを切り抜けたり、
突破したりして、
自分なりの居場所を確保できたらいいけど、
そうじゃないと苦しいよね? 

これまでは
「毎日元気で会社に行って仕事する人」が求められていたけど、
ここにきて「7割は自宅で働けるようにしようよ」とか言い出してて、
そうなると教育の在り方も変わるんだろうか?

メディアリテラシー
ITリテラシー
在宅リテラシー
なんてものが求められるのかしら?

変わるのか? それともこのままなのか?
なんかちょっと楽しみだったりもします。

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