そのきまり 必要?-①
そのきまり 必要?-②
そのきまり 必要?-③

ときまして、四回目です。
一応投稿としてはこれで最後のつもり。

今回は「廊下を走ってはいけません」を例にとっているので、
身のこなし、ということを書きます。

実は、これ、結構大切なポイントなんじゃないかと考えます。

もちろん、個人差があり、
その個人差の延長線上には障害、
というものもあることは
踏まえての記述だとお考え下さい。

そのうえで、あえて、やはり、
生き物として、
自分で自分を守る、というのは
大原則ではないのか、
というのが、私の考えです。

まずは自分のことは自分で守る。
そして、強くなって、弱い人を守る。

私の経験上(あくまでも経験上です)、
身のこなしを会得するには、
痛みが伴う。
転んで痛い、ぶつかって痛い、
けがをする、
血が出る、傷もつく。
そういうことを自分で体験するし、
友だちがそういう風にけがをしているのを見て疑似体験もする。
それで自然と危険に対する嗅覚が鋭くなり、
回避する力もつく、というのが私の考え。

じゃあ、どこまでのけがなら許せるの?
と聞かれたら「治るけがなら」と答えます。
私のおでこには、3歳の頃のけがのあとがあります。
ひざには転んで石が刺さったケガのあとだらけ。
半世紀以上もしぶとく残っています。

うちの子どもたちも、あちらこちらとケガをして育ちました。
ラグビーっていう、ただでさえケガの多いスポーツをしていて、
さらにケガの多いポジションでしたので、
骨折も、脳震盪も、大きな手術も、経験しました。

ケガ自慢をしたいわけじゃないんです。
そうじゃなくて、今生きていれば、
そのくらいを許容範囲としてもいいんじゃないか、
ということを伝えたい。伝わりますか? だめかな?

骨折した! 鼻血が出た! ちょっと傷がついた!
というので、「大事なうちの子に!」と
脊髄反射的に腹が立つ、許せない気持ちになるのはわかる。
でも、もう一方で、少し落ち着いたところで、
これで済んでよかった、という考え方をするのは難しいんだろうか?

取り返しのつかないケガをする前に、
お互いにこういうことが起きるとわかってよかった。
今回はけがをさせられた側だけど、
子どものこと。いつ逆になるかもわからない。
大事の前の小事。
次は気を付けようというふうに、
思えるケガでよかった。

そこを「ダメ!」ってしちゃうと、
生物としてのたくましさが身につかないのではないか。

話を原点に戻すと、
きまり でがんじがらめにすることで、
表面的に守っているように見えて、
その実、育つ力、自ら守る力を
奪うことになってはいないのか?

危ないことが起きた時、
起きそうになった時に、
自分で考える力を奪っているのではないか?

そんなたわごと、
今日まで命を失わずに子どもを育ててきたから言えるんだ!
何かの事故で、もしくは故意に、命を奪われたら、
治らないケガだったらどうするんだ!?
そんな悠長なことが言えるのか!?

そういうご意見があることも予測したうえで、
あえて、踏み込んで書いてみました。

ご意見、コメント等でいただけたらうれしいです。