自分の本質、みたいなところを掘り下げていくと、
底なし沼にハマってしまうことがあります。
「私って何?」
「なんのために生きてる?」
「これまでの人生はまやかしだったんじゃないか?」

自分の中で、大きな価値観の変換が起きると
自分を取り巻く世界が一変して見えます。

とてもあたたかく、親しいと思っていた世界が、
急に暗く、トゲを持ったものに感じられたり、
空気のように自然だった場所が、
あがいて、必死で息をしないと生きられない場所に感じたり。

ようやくこのテーマの本題に入っていきます(^^ゞ

つまり、「学ぶ」っていうことは、
自分自身のどこかが変わること。
そして、それによって
自分にとっての世界が変わるってこと。

ということを、林竹二は言いたかったんだと思う。

もちろん、本を読んだり、
話を聞いたり、
自分でも考えをまとめてみたり、
ときには討論したり、
ということが「学ぶ」ということの
一つの方法。王道。

それによって世界が変わることだって、
普通に起きるでしょう。
でも、一方で、
このやり方は、
自分を安全なところに置きながら、
「学んでいるふり」ができるってことも
あると思うのです。

私がこの竹内研で学んだのは、
「からだまるごと」で自分の変化を体験すること、
そして、それを仲間の目にさらすこと、
でした。逃げ場なし。

というか、適当にやり過ごそうとしたら、
そういう自分をみんなにさらすことになる。

逆に、誰かの、
その静かな、時には劇的な変化を見せつけられること、
でもあったかと考えます。

わずか二十歳そこそこで、
自分の悩みや苦しみから逃げ出したくて、
本ばかり読んでいた私にとって、
この「からだまるごと」はものすごく衝撃的な「学び」でした。

ただ、この学びによって、
最初に書いたように、
実生活との親和性が途切れてしまうこともあります。
もう、元の生活には戻れない。
見なかったフリをして、ニコニコできない、という感じ。

竹内さんも、この部分では葛藤があったようで、
「俺がやってることって、相手を一度不幸にすることじゃないか」
と、私なんかにまっすぐに問いかけられて、
どぎまぎしたことがありました。

私自身はすでに実生活で
「普通にやっていけない」状態をさんざん経験していたので、
竹内さんとの出会いで、
あらためて世界との親和性を取り戻していく、という感覚がありました。
だから、竹内さんは私に、質問したんじゃないかと、
今になって思います。

一度ドロップアウトした私みたいなモノにとっては、
竹内さんとの出会いが救いになることもある。
でも、なんとか自分の周囲とバランスを取りながら、
うまくやってきた人にとっては、
「不幸の一丁目」に誘うことになるのではないか。

全身全霊で「場」を支える竹内さんも、
こうして迷うことがあるんだ、と少しホッとした気持ち。

迷いを持ちながら、でも、何かに突き動かされるように、
その「場」を持ち続けるエネルギー。

その両方が目の前に迫ってきたとき、
息が止まるぐらいの圧迫感でした。

そして、当然ながら、
私には答えがなかったので、
「どうなんだろうかねぇ」みたいな
すごく中途半端な返事しかできませんでした。