4階にある研究室の隣には、
壁一面が鏡張りの広いレッスン室があって、
レッスンは基本的にそこで行われました。

素足で、動きやすい服装で、
自由を取り戻していくこころとからだ。
それぞれが自分の次元で
こころとからだをひらいていく、
ひらかれていく、
というプロセスを目の当たりに。

私にとって、
ありのまま でいることは
とても心地のいいことでしたが、
それと同時に、どこまで自分がひらかれていくのか、
怖さもありました。

人に見せたくない部分、
見られたくないところもあるわけで、
でも、レッスンの中ではそういうものも
浮かび上がってきてしまう。

見せたい自分と見せたくない自分。
ありのまま でいると思っていたら、
もっと深いところにも、
さらに ありのまま があるという
なんか底なし沼を掘っていくような感覚。

自分がアメーバみたいに溶けていくみたいな感覚。

人として、立っていられないような
ものすごい不安にかられる場面もありました。

そこをどう安心して
その場に委ねられるか、が
問われたりするわけですが。

で、その「場」を支える、
竹内さんという人のエネルギーというか、
集中力、気力、みたいなものに
圧倒されることが度々でした。

ありのまま とか、自由に とか、
自然体で、とかいうけど、
みんながそうし始めたらカオスです。
そのカオスすら心地いい場合もあるわけですが、
どこかで「ここまで」にしないと、
追い込まれすぎてしまうこともある。

竹内さんは、その「場」のコントロールが絶妙だった、
だからこそ、安心して自分をひらいていくことができた。

私たちは研究室で、
「場を支える」という言い方をよくしました。
とても二十歳そこそこの学生ができることではない。
でも「場を支えられる人になりたい」と
みんなが思ったんじゃないと。
それだけでも、竹内さんはすごい人だったんです。

そして、もうひとつ、
大きな気づきが。
私から見たら、
真面目で、学校生活に適応して、
順調に高校生活も終え、
大学に入ってきた人たちが
「葛藤ばかり」だった私より、
ずっとずっと深い闇を抱えている場合があることを
知ったのです。

自分はこれでいい、と思っていたけど、
からだは納得していなかった。
嫌なことにも、疑問にも、全部蓋をして、
見ないことにして、
「ちゃんとする」ことができた人たち。
優等生だった人たちが、
押さえつけていたものが噴き出してくるような瞬間に、
何度も何度も立ち会いました。
それはそれで、すごく怖いことでした。

こういう「場」で、
本で読む知識ではなく、
からだまるごと、
こころまるごとで気づいてしまったら、
やはり後戻りはできない。

もう、元の「ふつう」に戻れない恐怖と、
新しい自分に出会える期待、
そのバランスを支えるのも、
竹内さんはとても上手だったと思います。
上手、という書き方が正しいのかどうか
わからないのだけれど。

大学の実質3年半という時間、
この「からだ」を軸にした価値観の中に
どーーーっぷり浸かったのは、
私の人生を大きく左右するものとなりました。

本ばっかり読んでいたあたまでっかちな自分に、
ようやく からだ が追いついてきた、
というような感じ。

また、いろいろな葛藤に耐えられず、
爆発してしまったことが
初めて肯定された、
「そういうこと、あるんだよ」と
認められたという実感もありました。

決して悪いことなんかじゃなく、
人として生きていくためには、
当たり前の反応だったということ。

そして、理屈ではなく、
からだ を軸にして、
思考を深めていく感じ。

私にとって初めての
「学び」の体験でした。