初めてレッスンを受けるまでの私は、
この竹内さんというおじさんから、
人生がひっくり返るくらいの影響を受けるとは
思いもしませんでした。

初めてのレッスンがいつだったのかも、
正確には覚えていないのですが、
初回のレッスンから、
そこが、自分の領域を侵されない、
安全地帯だということは
からだ丸ごとで理解できました。

この、持ち主自身が扱いかねている
自分のこころとからだ。
こんなにやっかいなものに対して
「そのままでいいんだよ」
「ありのままでいいよ」と
理屈抜きで認めてもらえたという
初めての体験でした。

いつもいつも
「変わらなきゃ」
「このままじゃだめだ」
「どこか変なんだ」と
何かわからないものから思いこまされていた
自分自身に気付いてみると、
「ありのままでいい」というのは、
ほんとうに楽ちん。
研究室と同じように、
自分にとっての世界が
一気に居心地よくなったような気がしました。

少なくとも、レッスンの間は、
自分自身でいることが、
何より大事にされていると実感することができたのです。

例えば「脱力のレッスン」
二人組になり、
一人が横になって、
もう一人が傍らに座ります。
それで、「右手を持って」
「その右手を持ちあげて」というような
竹内さんの指示に従って、
相手のからだを一つひとつ動かしていきます。

寝ている方は、とにかく相手に任せる。委ねる。

ところが、これがもうしょっぱなから驚きの連続。

パートナーが手を触ろうとすると、
寝ている人の手が「ひょこ」っと持ち上がる。
腕ごと持ち上げようとしたら
寝ている人の腕が自然に持ち上がってくる。

それも「ありのままの自分」なのですが、
自分のからだすら、
自分でコントールできないことに気付くのは、
大きなショックです。

逆に意地になって「腕を持ち上げないぞ」と
体を固めてしまうのも
全然脱力にはなりません。

そもそも初対面に近い相手に自分をゆだねることができるのか。

「脱力できる」が正解なのではなく、
脱力ができない自分に気付く、
相手の期待に応えようとしている自分に気付く。
それを「いい」「悪い」でジャッジしない。
まずは気付く。

逆に、パートナーとしては、
相手を安心させる触れ方ができるのか、
アプローチができるのか、
そこも問われます。
乱暴に手をつかみ、
腕を持ち上げて振り回したら、
相手は不安になって当たり前です。
そのことにも気付かされる。
「言われたとおりにやれば、正解」
それで相手がどう思うか、どう感じるかなんかは
考えたこともない、という人も、
かなりの割合で存在することも知りました。

それが当たり前だと思っていた人が、
「他者」というものがあって、
その人も感じたり、考えたりしているんだ、って
理屈抜きで知る瞬間。
パニックを起こす人もいました。

最初はワイワイ盛り上がっている参加者が、
回数を重ねていくと、この脱力だけですごく深いところに入ってしまい、
ちょっとしたカオスになることもあります。

私が学生たち相手に実施したときには、
立てない人が続出してこっちがパニックになってしまいました。
初めて脱力のレッスンをする人たちに、
ちょっと丁寧にやりすぎた。

本当に入り口の入り口のところで、
もう学びが多すぎて、
しかも体丸ごとで学んでいく体験に、
うれしいやら、
ホッとするやら、
なんかもう放心状態。

「ここにはなにかがある」
と、理屈抜きで確信してしまい、
ますます研究室に入りびたることになります。