嫌がることをムリにさせるのはある種の虐待じゃない?
楽しく続けていることをムリにやめさせることはないんじゃない?
というお話しの続きです。

一つのことを長く続けることに価値がある、
という考え方があります。
「継続は力なり」と言いますよね。
すぐに成果がでなくても、
根気よく、粘り強く続けているうちに、
花が開き、実りが得られる、という考え方です。

私はものすご~くあきっぽいので、
この言葉にはコンプレックスがあります。
なんでも途中でやめちゃうあんたはダメな人、と
言われているような気がしちゃう。
いや
なんでも途中でやめちゃった私はダメな人、っていう
思い込みがあるのかもしれません。

うちの息子は30歳を過ぎるまで、
20数年同じスポーツを続けました。
いい指導者やお仲間、運にも恵まれて、
望んでいた以上の成果も得られ、
とても幸せな競技生活を送ることができたと思います。

世間的に言うと、
『一つのことを辛抱強く、
長く続けたいい子』ってこと?

でも、親子共に、
悩みも、迷いもなく、
一途にその道を進んできたわけではありません。

本人が何度も何度もやめようかな、ということがあり、
親として、これでいいの?と心配になることもあり、
そのたびに家族で話し合い、
「ここまでやったらやめる」「これを区切りにやめる」
という期限を決めて、本人はがんばり、家族は協力。
そこでまた、何かが起きて、
「あと少しだけ続けてみる」「もう少しだけやりたい」
となって、
結果的に20数年続いた、ということなのです。

ここ、よく勘違いされるところです。

結果的に続いただけで、
なにがなんでも『20数年続ける』と
決めていたわけではなかったのです。

親として「やめてはいけない」と
言ったこともありません。

結果的に長く続けられることに出会えたのは、
とても幸せなことだったと思います。
でも、続けたことによって、
諦めたこと、経験できなかったこともある。
いいことだけがあったわけでもありません。

ここも勘違いされるところです。

一つのことを長く続けた人に対して、
尊敬する気持ちを持つことはあるでしょう。
あこがれる気持ちを持つこともあるかもしれない。

でも、決してご本人の頑張りだけで、
そうなるわけではない。

周りの人の支えも必要、
導いてくれる人も必要。
タイミングも運も味方してくれて、
結果的に続けられた、ということが
はしょられてしまうと、
全部個人の責任、家族の責任、
みたいな誤解も生まれます。

いろんな巡り合わせが重なって、
そうなった、というところにも
思いをはせたいですね。

次は「途中でやめるのは悪?」
「どこでやめるの?」というお話しを書きたいと思います。