昨日の投稿↓

最後に書いたのは
「やってもやらなくてもいい」
「参加してもしなくてもいい」
「楽しそうだったら途中から参加できる」
「楽しくなくなったら途中でやめてもいい」

というぐらいの緩さを共有したい、
ということ。

「緩さ」と書きましたが、
これ、もう少し強く言うと「権利」です。

好きなことをがんばる権利、
嫌なことを避ける権利。

でも、「嫌なことから逃げる」というと、
「ずるい」という批判がついてきます。

本当にそうなんでしょうか?

それ「自分は嫌なことを我慢してやってるのに」という
裏返しじゃないですか?

それ、ずるいですか?

60年も生きてますから、
嫌なことを我慢してやってきましたし、
今もそうです。
でも、それは「我慢できる」からです。
好きなことのため、楽しいことのためなら、
ちょっとぐらいなら嫌なこともがんばれる。
嫌なことをゼロにしようという話ではないんです。

今もけっこうしんどい仕事をしていると思いますが、
それと引き換えに得られる自由がある。
しんどい仕事の中にも毎日喜びもある。
だから「我慢できる」
それは私の判断であり、価値観であり、
そして権利です。

「やめたいなぁ」と思ったり、
「いや、もう少し頑張ろうかなぁ」と思ったり、
揺れ動きつつ「続ける」を選んでいます。

同じ仕事を始めた仲間の中には
「どうしてもつらくて続けられない」と
辞めていった人もたくさんいます。
それもその人の権利。
その人が決めたこと。

「何に対してもそうだから長続きしないのだ」という
批難、批判もよくあることです。
でも、そうでしょうか?

極論、
ちょっとやってはやめて、という
「飽きっぽい」と言われる人でも、
何か、ずっと続けていることはある。
「こだわり」かもしれないし
「趣味」かもしれない。
それだけは続く、というものがあるなら
全然飽きっぽくない。

その人には、無理なく生活していく権利がある。
一切無理をしない、ではなく、
いろんなことが綾なす暮らしの中で、
ここは我慢できる、
ここは我慢できない、
それを自分で決める権利がある、ということ。

誰かに対して「ずるい」と言ってしまう側には
自分で決める権利が使えていない、
自分が好きなことのために「頑張る力」が使えていない、
自分で決めている人がうらやましい、妬ましい、
そんな気持ちがあるんじゃないか。
私はずっとそうでした。
誰かがいつもうらやましかった。
あんなふうになりたい、
いや、ちがう、
ああはなりたくない、を
行ったり来たりしていたような気がします。

もし、誰かの「ずるい」に影響を受けて、
自分が嫌な思いをしているとしたら
「嫌だ」と言ってもいいんです。
言わなくてもいい。
それも自分の権利、だから。