私は最近教育関係の情報に触れる機会が多いのですが、
「問い直し」が過去の否定とか、
踏襲か改革の二項対立ってやつになるのが気になります。
相手を否定して、自分を立たせようという感じ。

教育だと「運動会」「遠足」「社会科見学」「参観日」「学芸会」なんてのが
「どうして必要なんだ?」とやり玉に挙がっている。
「水泳」も年に1回あるかないかならいらないんじゃないか?とか。
組体操は危険、水泳授業も危険、跳び箱もマット運動も危険、
熱中症のリスクがあるのに何で長時間運動会の練習をさせるのだ?
参観日は親が来れない子がつらいんじゃないか?
学芸会ってそもそも何のためにあるんだ?
社会科見学で何が学べるんだ?
遠足で山登りをして何が楽しい?

何ごとも問い直しは大事です。
十年一日、のんべんだらりと踏襲することがいいことではない。
常に反省し、問い直し、よりよいものに向けて改善していく。
どの世界でもそうです。

でも、特に教育の世界は「踏襲」がデフォルトになっていて
なかなか改革が進まない状況があった。
だから今、大きく逆ブレしようとしているのもわかる。

そして、今まで抑えつけられていた分、
「これまで」を否定する口調の強さが気になります。

遠足がなければ、山登りの楽しさに出会えなかった子がいたこと、
運動会がなければ、みんなで演技する楽しさに出会えなかった子がいたこと、
みんなの前で披露する緊張感と、成し遂げたときの達成感、
うまくいかなかったときの挫折感からの立ち直り、
これらは意味のないことだったのか?

運動会を「やる」か「やらない」かで対立するのではなく
学芸会を「やる」か「やらない」かで対立するのでもない
新しい着地点を見つけるチャンスだと考えることはできないでしょうか。

得意不得意もある、
身体的に障害があって思うようにならない部分、
発達の凸凹、
一人ひとり違います。
だからこそ、それこそインクルーシブに、
「やってもやらなくてもいい」
「参加してもしなくてもいい」
「楽しそうだったら途中から参加できる」
「楽しくなくなったら途中でやめてもいい」
くらいの緩さが共有されれば、
踏襲だって悪くないんじゃないかとも思います。

やらないこと、途中で参加したりやめたりすること、を
責めたり、咎めたりすることがなくなれば、
それだけでずいぶん自由度が上がるんじゃないか?

その過程で「自分はどうするのか」という
自問のチャンスにもなる。
自己決定の経験にもなる。
そのことについてクラスや学年や学校、
みんなで考えあうチャンスにもできる。

今までを完全否定するためではなく、
より良いものにしていくための対話であり、
討論であってほしい。
そして結局それで「踏襲」になったとしても、
中身はこれまでと大きく違うものになっていると思うんですよね。