昨日の続きなんですけど、
なんでマスコミが弱腰なんだろう? っていうところ。

結局、
だってみんな生きてかなきゃいけないもの、
食べてかなきゃいけないもん、
っていうところかなぁと考えています。

そもそも、私が自分のホームページを持ちたい、
と考えたのは、
「自由に書ける場所がほしい」とおもったからです。

それでも昨日書いたように、
いろいろ考えて、テーマや表現は選びます。

私のいくつかある仕事の一つに「書く」ことがありますが、
これ、自由度は低いです。
雑誌などでは、元々の企画意図があり、
それに沿ったものが書けないと仕事にならないです。
「私はこう書きたいんです」なんて言えない。
じゃあ、アナタには頼まないです、って言われて終わりです。

企画意図をくみ取る力、
それを取材した内容にからめて、
まとめる力が求められます。
そして、大事なのがスポンサーに対する配慮。

自動車メーカーがスポンサーでたくさんお金を出している雑誌に、
「車はいらない」という記事は書けない。
せいぜい「どうしても車がないといけない場面はある。
ただ、環境のこと、交通事故のリスクを考えたら、
今の車のあり方でいいのかどうか、
真剣に考えるときが来ているような気がする」
程度に「やわらげる」ことは求められます。
それでも「ボツ」と言われることはよくあると思います。

だから、プロのライターさんたちは、
そのあたりのさじ加減や忖度ができる人が重宝される。

若い頃の私はほんとうに世間知らずだったので、
結婚情報誌の仕事をしていたときに
「でも、これ、高すぎますよ!」
「こんなにお金かけないでもできるやり方があるのに!」
「こんな見かけ倒しにすごいお金払うなんてばかばかしいですよ」
って、連呼していつの間にかお仕事来なくなりました。
ほんと、世間知らず過ぎ。
でも、裏側を知れば知るほど、
そんなこと書けないよ~!って思うことが増えて、
きつかったです。

あ、参考までに言っておくと、
レギュラーのお仕事をしていても、
「来期からは別の方に頼みますね」と
言ってもらえることはないです。
静かに切られる。
ぱたりと連絡がなくなって、オシマイ。
親しい編集さんだと、
裏話をしてくれたりしますが・・・・・・
まあ、自分には力がなかった、と諦めるしかないです。

これは、たとえ、自分が著者として本を書くときであっても
編集者や出版社から「注文」が入ることはよくあります。

また別の機会に書きますが、
子育てをテーマに仕事をしている身としては、
「中学受験の功罪」というところは
避けて通れないと思っています。
そして、機会を見つけては書いてます。
けっこう力を入れて書きます。

でも、それがそのまま採用されたことは
ほとんどないです。
9割方削られます。

某出版社からは
「すみません、うちの大口スポンサーに
進学塾があるので、この項目は差し替えてください」と
はっきり言われました。

それ以外はだいたい「いろいろな考え方や立場があるので、
一方的に否定するような記述は避けていただきたい」と
やんわり言われます。

決して「否定的な」記事にしたつもりはないのですが、
マイナス面を少し強調すると、そう言われます。

今ではその出版社のスタンスを見るために、
自著の場合には「わざと」入れます。
そっと紛れ込ませる。
でも、9割方チェックが入ります。

ライター界では下っ端の下っ端にいる私でもこんな感じなので、
政治的な記事を第一線で書いている人が求められる「配慮」は
どんなにすごいものか、想像はつきます。

報道の自由とか、表現の自由とか、言論の自由とか言うけど、
きっと自由なんかじゃないと思う。

それを仕事にする限り、
それで食べていこうと思う限り、
「配慮」を全て断っていたら、
依頼はなくなります。

「配慮」が上手な人が生き残っていく、
勝ち組になっていくとしたら、
それはものすごく嫌なこと。
だけど、みんな生きていかなきゃいけないんですもの。

力のある人のそばにいたら「得をする」のが
古今東西のならいです。
それを外れるなら「清貧」に甘んじる覚悟も必要。

それでも、それでも・・・・・・
揺れながら、迷いながら、
「良心」のカケラを大切に胸に抱いて、
仕事をしている人たちは沢山いるはず。

私も、どちらか、ではなく、
その間で、
おろおろと漂っています。

だからこそ、ここはもう一歩
みんなで踏み出せたらいいな、と
おろおろしながら思います。
願います。

「せーのっ」って!

政治に対して、日本という国に対して、
あきらめず、
ひるまず、
いつもの文章に「ひと言だけ」加えていくような、
小さな小さな一歩でいいから。

そういう風に変えていく、ということも
できるんじゃないかと思うのです。

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