もう30年以上前に、
「働いていないお母さんでも、
子どもを安心して預けられるサービスが始めたい!」と
いろいろやってみたことがあります。
まあ、今考えてみれば、稚拙で、荒削りなものでしたが、
形になったり、なりそうになったところで邪魔されたり、
見切り発車してみたものの人が集まらず断念したり、
まあいろいろありました・・・・・・。

その時に、本を読んで知ったある保育園の園長先生に
「こういうことを始めたいのですが、どうお思いになりますか?」
「何か注意することはありますか?」と
ぶしつけにもいきなりお手紙書いて送ったのです。

そしたら、とても丁寧にお返事を頂いて、
「誰のためにやっていることなのかをはっきりさせた方がいい」
というアドバイスを頂きました。

・安心して子どもを預ける先がなくて美容院にも行けないというお母さんたちのため
・お母さんがどこかに行く時に一人で留守番しなくちゃいけないかもしれない子どもたちのため

この二つは両立しない

ということです。

お母さんを主体に考えるならば、
短時間子どもには我慢してもらわないといけないことがある。
いつもと違う場所で、慣れない人に、預けられるのは
どう考えてもストレス。
でも、それを超えていいことがあるから、
その分帰ってきたら一杯遊ぶから、
泣いても、わめいても、預ける、預かる、のか。

子どもが数時間すごく楽しく充実して過ごせる環境を用意して、
楽しく遊んでいる間は、お母さんが自由に過してもいいことにするのか。

私たちが目指したのは前者だったので
(後者は幼児教室など定期的にお金を出せばなんとかなるものがすでに用意されていた)
そこを欲張らないのが大事、ということを肝に銘じました。

一石二鳥、一石三鳥は、
結果的に起きることであって、
そこは目標にできない。

まず一つ最優先の達成事項を目標として、
そこに向かって力を尽くしているうちに、
ほかのメリットも併せ持つようになる場合もある。

そういう意味では、
義務教育は
「国家のため」なんだろうなぁ、と
思います。

民主主義国家であったとしても、
その国民が基本的な学力を身につけることは、
その個人の幸せではなく、
国家の未来のため、なんじゃないか。

「民主主義」といいながら、
国民の幸せを最優先に考えられている国は
ないんじゃないかと思う。
そもそも、国家が滅んでしまったら、
民主主義もくそもない。

「当たり前」は簡単にひっくり返るということを書きましたが、
これも「子どもを守るため」とはちょっと違うのかも。

最初は「子どもたちを守るため」だったのに、
それがいつの間にか
どこかからの批判や非難をかわすため、
突っ込まれても「~していたから」と反論するため、
やられているから広まってる、
という気もする。

なんか、悲観的すぎるかなぁ?

インスタもやってます