学校は必要か?っていう話になったときに、
よく言われるのが
集団生活ができる協調性を育てる
やりたくないこともやりとげる忍耐力を育てる

なんてこと。

運動会や学芸会で「みんなで」がんばろう!という
波に乗れなかったら、なんとなく白い目で見られる。
自分でも自分を責めてしまう。

全校朝礼で整列して、
たいして面白くもない先生のお話を聞きながら、
足で砂遊びをしてたら「お話しを聞きなさい!」と叱られる。

貧血で倒れたら、「体力ない」と決めつけられる。

授業中じっとしてられないと
先生から「おうちでも少し練習してください」とか言われる。

「治らなかった」ら、
専門家を訪ねるように言われて、
何回も通った末に、「障害」認定される。

※ここから薬の処方、「落ち着いてよかったね」になる場合も

これって本当に必要なことなの?

実際に人とうまく関われなくても、
それを「特性」として、
上手に社会に親和していく方法はいくらでもある。
特にこれだけネットが普及したら、
コミュニケーションや「協調」のあり方も
大きく変化し、バリエーションも広がっている。

自席にじっと座っていられない子は
なぜそうなのか。
先生の話をじっと聞けない子は、
なぜそうなのか。

音声ではなく、文字にしたら伝わる場合もある。
横になって、目をつぶって音声だけに集中したら聞き取れる場合もある。
カウンター型のデスクに立って向かったら、
集中できる子もいる。
教室で多人数では注意力散漫になるけれど、
1人の空間ならものすごい集中を発揮する子もいる。

それぞれの特性に寄りそうことはせずに、
「あなたが変わらないと将来困る」というメッセージを出し続ける集団で
一日の大半を過すことに本当に意味があるのか。
そこで「あなたが変わりなさい。みんなはできています」と
言われ続ける日々は本当に幸せなのか。

無理なくできる子にとってはなんでもないことを
「がんばれ」「変われ」「きっとできる」と言われて、
何百倍もの努力でできるようになって、
その先に必ず、その子の幸せはあるのか?

もう半世紀以上前の私は、
いつも「自分が人と違う」ということを意識させられて、
「それじゃだめなんだ」と言われ続けていたような気がします。
みんなといるのが居心地が悪い、
みんながなんでそれを楽しいと思うのかわからない、
できたらずっと本を読んでいたい、
勉強は教室でなく自分一人で邪魔されずにしたい、
体を動かすのはキライではないけどみんなとおんなじことができない・・・・・・。

それをなんとか頑張って、
みんなに合わせられるようにして、
叱られないように、目立たないように、
「あ、やばい」となったら、
人知れず空想の世界で自分を解き放って、
現実から離れたところに置いて乗り切る・・・・・・。

そうやって、思春期を迎えた私は、
あまりにも辛すぎて爆発してしまいました。
こうやって大人になったとして
そこで待っている世界に絶望してしまった、というのもある。

大人になっても何もいいことない、
こんな社会に出たくない、
出てやっていく自信もない。

決定的にそう思わされたのも、
学校、だったのです。

学校、このつらい修行をクリアすれば、
スーパーサイヤ人になれる、ならばいい。
でも、ただ辛いだけなら、
自分を失う前に、そのバスから降りることだって
認められていいんじゃないか?

ずっとそう思いながら、この仕事をしてきました。

図らずも、このコロナ騒動で、
学びのバリエーションはいくらでもあることがわかってきた。
好きな人と好きなように過す時間の豊かさも実感できた。
学校がつらい日々の救いになっている子がいる一方で、
学校がなくなったことによって救われた子たちもいた。

今まで通りの学校に「戻る」のを目標にするのではなくて、
コロナ後の新しい学校のあり方、というのを
ぜひ考えてほしい。
私も考えていきたい。