私は基本的に、ここで時事ネタをテーマにしないようにしています。
思うところはいろいろいあっても、当事者ではないし、
報道されることは日々刻々と変わりますから。

今回の通り魔事件についても、
取り上げる気はなかったのですが、
これは書いておきたいと思ったので、
残しておこうと思います。

事件の直後、
「死にたいなら一人で死ね」と
コメントしないでほしい、
控えてほしい、と
ある社会学者の方が発言され、
炎上するという事態に発展しました。

私は初めて「死にたいなら一人で」はやめて、
というネットニュースを見たときに、
なるほどなぁと、納得しました。
次の事件を防ぐため、
また、いたずらに自死を誘発しないように、
冷静で適切なメッセージだと感じたからです。

でも、実際はそうじゃない方が多かったんですね。
家族を殺された人の気持ちになれ
自分の都合に他人を巻き込んでもいいというのか と。
それが発信した方への怒りとなって、
とても身近な方のSNSでも、
彼が勤めている大学をおとしめたり、
その大学で学ぶ学生を見下したり、
というふうに増幅していくのを
驚きを持ってみつめてしまいました。

実は、私は以前この発言者の方に取材をしたことがありました。
世の中に張り巡らされていると言われている、
セーフティーネットからこぼれてしまう人たちを
ていねいに拾い上げて、
なんとか福祉の制度につなげ、
できるだけ不安なく生きていけるようにする。
そんな方策を共に動き、考えるNPOを主宰されている方です。

絶望の海の上に張られたロープを綱渡りをするように、
また、薄い薄い皮一枚の内側に、爆発しそうな種を抱えて、
そろりそろりと生きている人たちがいて、
今回のような事件が起きただけでも
そのバランスを崩す外的要因になりかねないのに、
さらに「やるなら一人で」「他人を巻き込むな」という強いメッセージが溢れることで、 「こんな風に世間の人が理解してくれないなら、自分も!」 と
次の事件を誘発してしまう、少なくとも、「そうか、一人ならいいんだ」と
思わせてしまう。
そんな危険性をピリピリと感じさせる。彼が見ている世界にいる人たちは、
そんな人たちなんだと思います。

一方、「何を言っているんだ!」と怒りを覚えた人たちは、
安全で、安心であるべき世界が、たった一人の人間によって、
切り裂かれ、取り返しのつかないことになってしまったことに、
心底怒りを感じておられる。
犯人を憎んでおられる。
人として当たり前の怒りを、あたりまえに抱く人たち。
ある意味普通の人たちの当たり前の反応。

彼の発言が、まるで犯人を擁護するように聞こえて、
犯人に対する怒り以上に、
発言者に対する怒りとして爆発した、ということなのでしょう。

私は今までに経験してきたいろいろなことを通じて、
普通でいることはとても難しいと思いながら生きてきました。
亡くなった母のことひとつとっても、
こんなに福祉が充実していると言われるのに使えない。
生活がどんどん圧迫され、貯えは尽き、
いっそ母を道連れにしていなくなったほうが、
夫や子どもたちのためになるのではないか、
区役所と往復する日々、車の中で何度号泣したかわかりません。

犯人の面倒を見てこられたご夫妻も、
何度も何度も相談しておられたし、
それよりなにより、
寄る辺のない身内の子どもを引き取って、
おとなになるまで少なくとも衣食住を提供してこられた。
単純にこのことだけを考えても、
何も知り得ない他人が、うかつなことは言えないと思っています。

「普通」からはみ出してしまうと、
こんなに暴力的に貶められても、
それを甘んじて受けねばならないのだとしたら、
その世界は本当に生きづらい。

見えている世界の違いは、埋まらないのでしょうか。

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